本泉寺山門

 

本泉寺 九山八海(くせんはっかい)の庭

蓮如が文明3年(1471)に本庭を造園したとされる。庫裡の北背面山麓に池を掘り、阿弥陀如来の浄土世界を象って、池中に六ヶ所の岩島を配し、自ら「九山八海」と名づけたと伝承される。

 

        静光寺

 

  本泉寺を中心に広がる二俣町

真宗寺院の門前町として歴史を歩んできました。

 二俣町は富山県との県境も近く、昔から尾山(金沢市の旧地名)から二俣を経て砺波の里にぬける道が、加賀・越中を結ぶ最短通路であったと言われ、この辺りは蓮如上人布教の足跡が多くある。

 二俣本泉寺はその中でも特に、井波の瑞泉寺や越前吉崎御坊と共に、加越における真宗興隆の基盤を成した。

 本泉寺は嘉吉2(1442)年に如乗(蓮如の叔父)により創建された。寺号は『捨塵記』に「本泉寺の号とは瑞泉を以て本号と為すなり」とあるように、瑞泉寺に由来する。創建時、裏山より吹く松風が扉を叩く音を聞いた村人達が「松風が扉を叩くような清々しい場所にお寺が建てられた」と、この場所を「松扉の小谷」と呼ぶようになり、松扉山本泉寺の名がつく。本願寺の蓮如は叔父の開いた本泉寺を足掛かりに加賀・越中の北国布教を開始することになる。

 また当地にあった静光寺も上人に帰依し、共に真宗の発展に努めた。

静光寺は文明10年(1478)年蓮如の弟子靜貞が創建したものである。当時は靜法坊と称したが、明治になり静光寺と改称した。

 長禄元(1457)年、蓮如43歳。如乗は兄の本願寺第7世存如(蓮如の父)死去に際してただひとり蓮如を後継に推して譲らず、蓮如の本願寺第8世就職に尽力し、その2年後に没した。歴史に「〜たら、〜れば」無いけれど、もしも如乗の頑張りが無かったなら、もしも如乗がもう少し早く死んでいれば、蓮如が本願寺の門首に就くことも叶わなかった。そうなれば本願寺の歴史、そして日本の歴史も大きく変わっていたであろう。

 本泉寺創建は如乗31歳、蓮如28歳の年である。北国への布教を願っていた蓮如は、まずは35歳の時(宝徳元・1449)最初の北国への旅を敢行した。その後2回目は54歳(応仁2・1468)、3回目は57歳(文明3・1471)の時、計3回北国へ足を運んだ。3回目の時に吉崎御坊が創建されている。吉崎では現在私達がお勤めしている「正信偈を唱和し、念仏を挿みながら6首の和讃を繰り読みしてゆく」本願寺独自の勤行が始まる。

 蓮如と如乗との尽力によって越中では瑞泉寺が、河北・加賀では本泉寺が北国布教の中心となって働く。しかし寛正元(1460)年如乗が49歳で亡くなると、16歳年下の妻(越前荒川・興行寺周覚の3女)は得度して勝如尼と名乗り、亡夫の遺志を継いで蓮如の活動を支え続けた。二俣の地を愛して蓮如は、その勝如尼の娘や孫娘に2男蓮乗、7男蓮悟、10男実悟の3人を次々に託して北国を念仏の地にしようと願った。蓮如の思いに応えて北国布教に尽力した勝如尼のことを、本願寺第9世実如(蓮如の5男)は「北陸道仏法再興の人なり」と称えている。

 蓮如の願い通り北国一帯に念仏の声が満ちるようになったが、同時に大きな武力を持った豪族や武士たちも門徒に加わり、守護大名や戦国大名との間に争いが生ずるようになる。そのような状況下で長享元(1487)年、第3世蓮悟は開創以来45年間に亘り二俣に在った本泉寺に留守を置き、金沢の若松へ本拠を移す。ここが歴史上、若松本泉寺と呼ばれる。若松移転翌年の長享2(1488)年、加賀守護・富樫政親との戦争(長享一揆)が起こり、本願寺門徒が勝利する。実悟が記した有名な「百姓の持ちたる国のように成り行き候」という加賀の国が誕生した。

 本泉寺は百姓の持ちたる国の中心となって働くが、越前や南加賀に大きな勢力を持つ超勝寺・本覚寺という同じ本願寺系寺院方との亀裂が次第に大きくなり、若松移転44年後の享禄4(1531)年、とうとう戦争(享禄の錯乱)となり、敗れた本泉寺は一夜にして焼け野原となったと伝えられる。住職の蓮悟は逃れた先の大坂(明治以降は大阪)で亡くなり、その跡に若松本泉寺が復興し、最初に開かれたこの地に二俣本泉寺が復興し現在に至る。