紙すき 

地元の伝承では、719年に医王山を開いた泰澄大師(福井県麻生津に生まれた人)がこの地に製紙法を伝えたとか、1449年に蓮如上人が北陸に布教の途中、本泉寺に寄った際に技術を伝えたとか言われています。

 1583年、前田利家が加賀の国に入ると、以前から二俣が紙の産地であることを知っていたので、紙を注文するとともに保護しました。藩では二俣の紙を御料紙(藩主が公式儀礼に用いる紙や藩主一族が日常生活で使用する紙)として使いました。御料紙を漉いていた人たちは、俗に「お紙屋」と呼ばれ、藩から年間十石の米と名字帯刀を許されていました。二俣の紙漉きの技術は向上し、「加賀奉書」として全国的にも知れわたるようになりました。二俣の全戸が何らかのかたちで紙漉きに携わっていたといわれています。田島も早くから製紙が行われていましたが、藩の御用も特別の保護もありませんでした。1694年、藩に御料紙すき上げの願いを出し、最初のうちは認められませんでしたが、その後、田島の9戸が許しを受け、製紙業者がしだいに増加してきました。そして二俣・田島一帯は紙すきの里として知られるようになりました。 明治維新により、加賀藩はなくなり、紙製造業者は大きな痛手を受けることになりました。しかしその後、学校教育がさかんとなり習字用の中折紙を多く製造するようになりました。明治22、3年頃から西洋紙が普及してきたため、藁を原料とした藁半紙なども製造しましたが、西洋紙に押されて徐々に衰退していきました。

 戦時中は障子紙、習字用紙、ちり紙、箔下紙などを主に作っていました。戦後すぐは手漉き紙の需要もありましたが、製紙業界に大企業が進出してくると、紙漉きをやめる家が目立ってきました。現在では特殊民芸紙、箔打ち紙を作っている数戸となりました。(医王山小中学校ホームページ「紙すき」より抜粋)

紙すきの里まつり